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Interview
SDGsの先駆者に訊く

Re:toucher 48
人生を一緒に歩んでいく
仲間でありたい。
タレント・ライフスピーカー・モデル 塚本 明里さん
岐阜県ヘルプマーク普及啓発大使
可児市ふるさと広報大使
脳脊髄炎患者会「笑顔の花びら集めたい」代表
インタビュアー Re:touchエグゼクティブプロデューサー 田中 信康
SDGsターゲット
  • 03 すべての人に健康と福祉を
  • 04 質の高い教育をみんなに
  • 05 ジェンダー平等を実現しよう
  • 10 人や国の不平等をなくそう
  • 16 平和と公正をすべての人に
  • 17 パートナーシップで目標を達成しよう
※このターゲットはRe:touch編集部の視点によるものです
高校2年の春、原因不明の発熱や倦怠感、全身の痛みに襲われた塚本明里さん。2つの病名がわかるまでに1年半、3つ目の病気が判明したのは7年後、人生の暗黒時代と振り返るこの時期に経験したことや出会いが、塚本さんに前向きに生きることを教えてくれた。
「これからはできることの数をかぞえていこう」。そう決意してから立ち上げたのが、同じ病気で偏見や誤解に苦しむ患者会「笑顔の花びら集めたい」。SNSの「#ブルーフォトチャレンジ」は、病気のことをみんなに知ってもらいたいと、この患者会から始まった。
また、岐阜県のヘルプマーク普及啓発大使に委嘱され、ヘルプマークサポーター研修で自らの考えを伝えている塚本さん。これからみんなでこの制度を大切に育んでいきたいと、子どもたちや保護者にも正しく理解してもらうためのリーフレットを自費で作っている。
今回は、岐阜県を中心にモデルやタレントとしても活躍され、がんばれって応援してもらうことが大好きと語る塚本明里さんにお話を聞いた。

Movie


インフルエンザのような症状で、
病名がわかるまでに1年半。

田中:岐阜県ヘルプマークサポーター研修ではありがとうございました。明里さんは、初めてお会いした方のような気がしませんね。インタビュー中でも、休憩が必要になったら遠慮せずに言ってくださいね。

塚本:ありがとうございます。うれしい。

田中:はじめに、まずはこのご病気のことをうかがわなくてはなりません。いつごろから体調に変化があらわれたのですか?

塚本:高校2年生の春に、テスト中に、机に突っ伏して動けなくなって、発熱していたので、病院に行って、風邪だね、ぐらいな感じで帰ってきて。ただ、ずっとインフルエンザ並みの体調不良が続いていたので、これはおかしいぞってなって、病院をひたすら巡って、発症から1年半後に、筋痛性脳脊髄炎っていう病気と、線維筋痛症っていう病気が診断されました

田中:インフルエンザのような症状だったんですね。

塚本:最初は2つでした。筋痛性脳脊髄炎は原因不明の強烈な倦怠感に襲われるっていうので、今だとコロナの後遺症の患者さんのなかにも認められる方が増えてきていて、本当にさっき言ったようにインフルエンザがずっと続いているみたいな症状で、もう動けないっていうのが1つ。もう1つが線維筋痛症っていって、全身がずっと、強烈に痛いっていう病気。私の場合は、今はペインクリニック、麻酔科に週2回通っているんですけど、全身40カ所に麻酔を打っていて、よく痛いよねっていわれるんですけど、全身の痛みのほうが針を刺されるより痛いので我慢できるんですね。そのあとの3時間ぐらいの痛みの和らぎの時間が至福で、それのおかげで寝たりもできるし、活動もできるしっていう感じで。

田中:本当に大変な病気です。。。

塚本:それから、高校2年生のときに発症して7年後にやっと、脳脊髄液減少症っていう病気も診断されて。脳ってぷかぷか脳脊髄液に浮かんでいるんですけど、その脳脊髄液が漏れてしまって脳が沈むっていう病気で。だから、頭をずっと立て続けていると倒れちゃったりするので、歩くことはできるんですけど、外出時にはリクライニング式の車いすで、いつでも倒せるようにして活動しています

田中:3つ目の病気がわかるまで7年もかかったんですね。

塚本:そうなんですよね。だから最初は自分も、これはなんだろうって。病気なのか、ただ風邪が長引いているだけなのかがわからなかったし、病名がわからない、イコール、人に説明できないんですよ。だから友達にも説明できないし、先生たちにも説明できないし、学校には行きたかったので行くけど、なぜこの子はいつも教室まで上がれない。階段を上がれないので、もう直行で1階の保健室に向かったりしていたんですけど、なぜこの子は授業に出ないんだろうみたいな、みんな不思議ですよね、先生たちは。

田中:だれにもわかってもらえないって、本当に辛かったと思います。

塚本:私自身は学校は行きたいから行くけど、出られないっていう葛藤が続きながら、一応、学校には行っていたので大丈夫だったんですけど、単位が取れていない。授業の単位が取れていないので、さあどうするってなったときに、ちょうど1年半後が高校3年生の秋かな。そのころに診断書が出て、それをきっかけに学校が動いてくださって、教科担任の先生たちが集まって会議を開いて、塚本をどう卒業させるかを検討してくれたそうで。すごくいい高校でしたね。

田中:診断書が間に合ってよかったです。

塚本:それで、相談室の一角に私のためのベッドだったり、暖房とか、冬だったので入れてくださって、そこで寝ながらでも課題をこなせば、単位を取れるようにしてくださって。世の中には、いろんな障がいだったり病気があっても学校に行きたい、学校で勉強したいという子がたくさんいると思うんですよ。今、コロナ禍でオンラインが増えてきたので、例えば、入院している子にオンラインで勉強できるようにするといいんじゃないかと思っているんですが、もう十何年前に先生たちが動いてくださったので、すごくよくしていただいたなって感謝しています

田中:当時は、パニックになったりしたと伺いましたが。。

塚本:そうなんですよ。今でこそ明るく楽しく活動ができているんですけど、病名がわからなかった1年半は、もう私の人生で暗黒時代といってもいいほどで。ちょうど青春を謳歌しているみんなが周りにいるわけで、学校に行って勉強して部活して遊んでっていうのを見ているので、自分だけ時が止まったみたいで、周りだけ進んでいるっていうのが、悲しくて泣いたことはないんですけど、悔しくて泣いたことはいっぱいあって
特に、負けず嫌いっていうよりも挑戦大好きっていうタイプだったので。泣いているところを人に見せたくないので、毎夜寝る前に布団のなかで泣いてから寝るっていうのが習慣になっていて。そのあとも、病名がわかったあとでも、やっぱり大学進学は決まっていたんですけど、入学式からもう大学に行けなくて、そんな体調じゃなかったので、で、休学して、休学期間がいっぱいになって退学したんですね。初めて大学に行ったのが、退学届を出しに行くときだったんで、とても辛かったです

田中:お話を聞いているだけでお察しします。。本当に大変だったと。。


私でも役に立てるんだって、
すごく前向きになれて。

塚本:で、あるときに「岐阜美少女図鑑」に出会って、一般の子をかわいくモデルにしてくれるフリーペーパーがあって。それを見たときに、車いすがちょうど手に入っていた時期で、挑戦したいってなって、挑戦して、合格して、冊子にも載って。でも、そのモデルちゃんたちはイベントとかに出るんですけど、私は出られない。やっぱり体調の関係で。だから、自分が行ける時間に応援に行っていたんですね。で、岐阜市の柳ヶ瀬商店街でイベントが開かれたときに、その柳ヶ瀬商店街に事務所があるまちづくり団体の代表の方に声をかけられて、柳ヶ瀬商店街に「やなな」っていうキャラクターがいたんですけども、頭は段ボール、首から下は人魚のハーフなんですけど。

田中:岐阜市の人はみなさんよくご存じですよ。

塚本:もう引退しちゃったんですけど、やななの広報なら、体調がいいときに、SNS発信したりとか、コメント返しならできるんじゃないのってお役目をいただいて。それまでは病院と家との往復生活で、自分は病人、何にも役に立てていないと思っていたんですけど、そのお役目をいただいたことで、私はだれかの役に立てるんだ、こんな私でも役割ができるんだっていうので、すごく前向きになれて、そこから自分の人生の暗黒時代からはい上がっていきました

田中:やなながきっかけになった?!これは素晴らしい。

塚本:そうですね。やななっていたずら大好きなんですけど、例えば、やななの周りにいるマネージャー、かわいい女の子、ビジュアルマネージャー、その子たちの顔を赤色のマーカーで塗りつぶして、さるぼぼとかいって。飛騨高山のさるぼぼっていたずらするぐらいやんちゃなんですけど、私には、この子は病気があるからやさしくしてあげなきゃみたいな感じで、周りの子たちがうらやむぐらい、私だけやさしく接してくれて、だから、今、目標にしているのは、いつかやななが復活すると信じているので、復活したときに、私はもう元気になっていて、やななにいたずらをされることで。もう元気だからいたずらしていいよって。本当に、やななにはパワーをいただいて、自分でもやれるからいろんなこと挑戦しようって。もともと子どものころから、やりたいことはやるタイプだったので、もういろんなことに挑戦しようと思って、いろいろやり始めて

田中:やななの広報は2年ぐらい務められたと伺いました。

塚本:私のなかでは10年ぐらいに感じています、やななとの絆は深いので。やななってすごくって、プロ意識を学んだのはやななからで。たぶん、周りにいたスタッフさんもそうなんですけど、やななってずっとやなななんですよ。段ボールと人魚のハーフで段ボールなんですけど、頭がずっとミーティングのときもやなな。
移動のときも、新幹線もやなな。なので、いろんな方に声をかけられたりするんですけど、やななは表情が変わらないんですけど、段ボールなので。表情は変わらないんですけど、全力で身振り手振りで、表情が見えるぐらいにしていて、それぐらいプロフェッショナルなやななでしたね。私もタレントとして活動していたときに、スイッチをしっかり入れて、人と接するときは笑顔でということを学びましたね。


病気になっていなかったら、
こんな人生は歩めていない。

田中:明里さんの、子どものころについてお聞かせください。

塚本:おてんばでしたね。親をいろいろなことに振り回す感じだったんですけど、病気になってそれもできないし、日常生活のなかでできないことがどんどん増えていって、もうすごくマイナス思考になる。それで、できないことの数をかぞえてネガティブになっていって、やななの広報っていう役割をいただいて、できることの数をかぞえていこうっていうことで、自分のモットーが、できないことの数をかぞえるんじゃなくて、できること、今できることの数をかぞえるってなって、そうしていったらすごく前向きになりましたね

田中:まさに、やななとの出会いが、本当に大きなターニングポイントになったことが分かりました

塚本:本当にそうですね。そこから、自分の世界が変わりました。ネガティブさが消えました。たぶん、田中さんも長い人生のなかで、いろいろと乗り越えられてきたと思うんですけど、私も病気っていうことがあって、それを乗り越えられたかはわからないけど、病気を経験したことで思いやりの心とかも知ることができたし、いろんな人とも出会えました。タレントとかモデルとか、可児市ふるさと広報大使だったり、岐阜県ヘルプマーク普及啓発大使だったり、そういうのができているのも、やっぱり病気があったからなので、私は病気になっていなかったら、こんな人生を歩めていないので、本当にうれしいですね。

田中:病気のことを、とても前向きにとらえられるようになれたことは、まさに様々なことを力に変えたということだと思います

塚本:あともう1つうれしいのが、病気を発症した高校で、今、非常勤講師をやっていて。どこかで私の活動を見られて、高校から一緒にやってくれないかってお声がかかって。今の生徒さんたちにこういう病気を持つ人のことも教えられるし、私が学ばせてもらった場所で人に教えているっていうのが、すごく感慨深いですね。

田中:自分の母校に恩返しできている。これは何より素晴らしいし、明里さんご本人にとっても力になるのでは。

塚本:もうずっと岐阜を離れたくないって思っていて、私の名前はふるさとを明るくするって書いて「明里」なんですけど、本名で。だから、このふるさとはずっと大事にしていきたいと思っています。

田中:すばらしい。私も、社会にいいこと、SDGsも推進も精一杯やっていきたいと思ってきましたが、今の明里さんのお話を聞いていると、私の想いなどはまだまだですね。

塚本:えー、そんなことない。

田中:私も、母校にSDGsの講師として来てくれっていうご依頼をいただくこともあるのですよ。明里さんと同じような意義を感じます。

塚本:すごいことですよね。

田中:でも、明里さんはやなながきっかけだったとしても、まったくぶれていない。私は明るい明里さんしか知らないのですが、暗黒の時代を乗り越えて、そのときの経験や思いを見事に生かされていますね。


深く深く考えすぎない、
明るい脳天気になれた。

田中:明里さんのもつ芯の強さに感心します。

塚本:私は、明るい能天気だっていっているんですよ。深く深く考えすぎないっていうのもあって、何で塚本さんはそんなふうにしていられるのって聞かれるんですけど、かっこよくいいたいけど、かっこよくいわない、本音をいうと本当に明るい能天気。でも、暗黒時代は、明るい能天気さはなくなっていましたけど。これまで人生を歩んできて、いつの間にか明るい能天気になれたし、特に一番思うのが、家族が私への接し方を変えなかったんですよ。
病気になると、やっぱり心配になって大丈夫?ってなってしまう方も多いと思うんですよ、ご家族で。わが家は、もうそんなのまったくなくて。たぶん、病気を理解してくれていて、心配も心のなかではしてるだろうけど、接し方はもう以前と変わりなく。病気で甘えていることもなくて、人に感謝していないとか、そういう叱るポイントがいくつかあって、日常生活で出てくるんですよね。それは、親として厳しく叱られますし、そこはまったく変わらなかったんです。私が変わらなかったから、母も変わらなかったって、母はよくいうんですけどね

田中:何かすごいね!本当にすごい!

塚本:全然すごくないですよ。だって、びっくりするんですけど、兄たち私の病気のことよくわかっていないですよ。私が病気だ、はわかっているんですけど、詳しくはよくわかっていなくて。だから頼みごとでも普通にしてくるもんね。もともと、挑戦好きで好奇心旺盛な部分が変わっていないから、たぶん、これやりたいだろうなとか、うん、体調が悪くても、赤ちゃん、姪っ子を見たいだろうなっていうのは、向こうはわかっていて、この日に何とかがあるけど来る?とかね、普通に。

田中:その極めて前向きな姿勢がいいのかな、そこなんでしょうね。

塚本:私がもともと好奇心が旺盛だったので、多少無理だと思っていても、いいんじゃない、やればで。私に以前と変わらず接することで、闘病生活の支えにならないかと思って、どこへでも連れていかれたんですよ

田中:すてきなご家族です。なかなかそうは出来ない。

塚本:そうですね。私はSNSとかでも、いつもがんばっているね、応援しているよっていわれるのが、うれしい。がんばるっていう言葉がプラスに働く人と、マイナスに働く人がいて、もうがんばれない、こんだけがんばっているのにってなってしまう人もいるんですけど、私の場合は、さらにがんばって、応援しているよっていうがんばってをもらっているので、すごく好き。がんばるっていう言葉が大好きなの

田中:私は、あまり使わないようにしていますが、がんばってっていう言葉が好きっていうのは、今の明里さんならではだと思いますね。

塚本:そうですよね。がんばらなくていいよっていう言葉を使おうっていうのが結構メジャー、有名になってきているから、たぶん、私、特別ですね。すごくうれしい。素直に思いを伝えてくださることがうれしくて。

田中:パワーがすごいよ、やっぱり。

塚本:えー、そうかな。私は、田中さんのパワーを最初からびしびし感じていました。お会いしたときから、遠い場所にいるはずなのに、一番目立っていて。

田中:私とは境遇がまったく違うと思いますが、私もスーパーポジティブシンキングでむしろ私は逆境の方が好きなくらいです。明里さんもそういう空気感を醸し出しているので、みんなが声をかけやすいというのもあると思いますよ

塚本:もう、私が何かをすることによって、周りにいた方が、何か一緒にしない?だったり、これならできるよって、確かに声をかけてくださるので。いつもの病人の私、家での私とは全然違うんですけど、でも、こうやって人と関わるお仕事だったり、活動だったりが、今の生きがい。病人だけやっていたら、たぶん、私、今みたいに心も元気でいられないので、心が元気でいられるのは、こういう生きがいがあってこそ。で、さらに人とつながることによって、また世界は広がっていくので、すごく今、幸せです


身内にも理解されなくて、
偏見や誤解に苦しんでいる。

田中:それがいえるって、本当にすばらしい。だから、同じ病気で苦しむ患者さんの会をつくったりできるんですね。「笑顔の花びら集めたい」でしたか?

塚本:筋痛性脳脊髄炎っていう病気は、今でこそコロナの患者さんのなかに後遺症として診断される方が増えてきているんですけど、私がなったときには全然知られていなくて。当時は慢性疲労症候群っていう名前の方が優先されていて、今の正式名称はそれを2つくっつけた筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群が正式名称なんですね。ただ、慢性疲労って入るだけで、みんな慢性疲労だよ、疲労ならあるよってなってしまうんですけど、正直、現状を見てみると、診断された方の3割が寝たきり状態っていう結構、重症なことが多くて。これを慢性疲労っていうワードでくくってしまってはだめだよって、いろんな方が活動するなかで、やっと筋痛性脳脊髄炎が前面になってきたっていう感じなんですけど。

田中:こんなに大変な病気なのに、一般的に認知されないのも大きな課題です。

塚本:まだそのころは知られていないから、とにかく知ってもらいたいっていう気持ちで患者会を立ち上げて、「笑顔の花びら集めたい」という名前にしました。で、何でその名前にしたかっていいますと、同じ活動をしていた患者さん、会員さんのなかに、私のようにいろいろな理解を得て笑顔でいられる、そんな花びら、患者さんたちを花びらに例えて、そんな花びらを集めたいっていうのでつけたんですね。患者さんのなかには身内の方にも理解されなくて、逆に偏見や誤解に苦しんでいる患者さんがすごく大勢いらっしゃって、で、困っている。そういう現状があって、環境も整っていなくて、で、病気も知られていないってなると、すごくたくさんの問題があったので、まずは知ってもらわなきゃいけないよねっていうことで、「笑顔の花びら集めたい」ではこの病気の啓発や啓蒙をしています

田中:外見だけでは判断できない病気の恐ろしさです

塚本:そう。やっぱり見た目ではわからない病気って多い。で、病名を出して病気を説明しても、よくわからないみたいになってしまうので、そうならないように、本当に大変な病気なんだよということを伝えていかないと。5月12日がこの病気の世界啓発デーなんですけど、どうして5月12日かっていうと、ナイチンゲールの誕生日。ナイチンゲールさんも、この病気の症状で50年苦しんでいたっていうことで、ナイチンゲールさんの誕生日が世界啓発デーになっていて、ブルーが啓発カラーで全世界統一されていて、ナイアガラの滝とかをブルーにライトアップしたりとか。だから、私たちの患者会でも、岐阜のいろんな場所をライトアップしたりとか、イベントを開いたりとかしてきました

田中:これは、毎年開催していますよね。

塚本:毎年やってきて、今年はお休みしたんですけど、SNSで「#ブルーフォトチャレンジ」を立ち上げていて、ブルーの、青色の画像、写真とかを撮って、SNSにアップするんですけど、それを「#ブルーフォトチャレンジ」っていうのをつけて発信してもらって、それで病気のことをいろんな人に知ってもらおうっていう活動をしていて、もう毎年、毎年ずっと年中無休でやっているので、SNSでは。だから、すごくたくさんの人が参加してくださって。なかには、英語ができる人だと英語に翻訳して投稿してくださると、さらに世界に広がるっていうのもSNSだと期待できるので、そういうのもやったりしています。


ヘルプマークの発信をしていたら、
岐阜県の方の目に留まって。

田中:そのあと、今、力を入れられているヘルプマークの発信にも取り組まれたという流れですね。

塚本:そうですね。2012年にヘルプマークが東京都でできて、で、そこから順番にいろんな道府県が導入していったっていうのもあって、で、私自身、ヘルプマークを手に入れたのも、岐阜県が導入するときに手に入れたんですけど、それまでは私、車いすに乗っていますけど歩けるので、例えば、飲食店だとソファとか座敷があれば普通に歩いて、そこでご飯を食べて、横になって、座ってご飯食べて、これを繰り返していると、やっぱり不思議ですよね。大人が横になっているなんて。で、特に居酒屋とかに行ったときに、私が横になっていると、周りの人が私を酔いつぶしたみたいな。

田中:確かに、そうですね。

塚本:で、こうやって困る人がたくさんいるんじゃないかなと思って、で、ヘルプマークを手に入れて発信を始めたところ、岐阜県の方の目に留まって、岐阜県のヘルプマーク普及啓発大使になったんですね。で、そこから私自身、大使になって、さあ、どんな活動するんだろうって思っていたんですけど、一番はヘルプマークサポーターの研修ですね。このヘルプマークのことを知ってもらって、どうやってサポートするかっていうことをちゃんと研修で知ってもらって、そして、サポーターになっていただくっていうので、私が講師として話すのと、あと岐阜県の方が話すのでワンセットで、もうずっと続けているんですけど、とにかくその研修を受けてくださる方はやる気に満ちていて、田中さんもそうでしたけど。

田中:はい。こうしたことに目をつむってはならないな、と思ったのと、知らないことを知る機会としては岐阜県が先進的に取り組んでいたので目を引きました。

塚本:田中さんが来てくださったのは、初めての団体向けの研修だったんですけど。これまでは個人向けで受けていただくだけだったんですけど、今年からは団体へも広げようって、岐阜県でもすごくヘルプマークに力を入れられていて。ヘルプマークって見た目ではわからない病気とか障がいがある人が、支援と配慮を受けやすくするために可視化したマークで、バッグとかにつけているんですけど。でも、ヘルプマークの使用者が増えているっていうのも、やっと2021年に全国に導入されて広がったので、やっぱり意味を知ってもらわないと役に立たないマークなので、より多くの方に知ってほしいなっていうのもあって、私自身も活動に力を入れています

田中:某女性ミュージシャンで社会問題になりましたね。

塚本:そうなんです。女性ミュージシャンのアルバムにつくグッズが、これと本当にそっくりで。これをつけてる人のなかには命に関わる発作を起こすことがあって、そんなときにただのファッションだと勘違いされたら困るっていうので。みんながばーっと意見をいうなかで、グッズの製作側がちゃんと謝罪をして、マークを変えますと。作り直しますというので落ち着いたんですけど、その出来事で、ヘルプマークをつけている人がたくさんいるんだっていうことを、私も知りました。

田中:私がヘルプマークを知ったのも、奇異ですが、まさにこれがきっかけでした。

塚本:ヘルプマーク自体は2012年にできて、まだ11年なので、そんなに前からあったマークではない。で、やっと広まって今なので、新しい文化なんですよね。そういう新しい文化を一緒につくっていいくなかには、ネガティブになってしまうような事柄が出てくるかもしれないけれど、このマークについて正しい伝え方だったりとか、サポート方法だったりとかが広がっていけばいいかなと思います


子どもたちや保護者にも、
正しく知ってほしい。

塚本:このコロナ禍のときにヘルプマークのCMが流れていたんですけど、女性がうずくまっていて、高校生ぐらいの学生さんが大丈夫ですかって声をかけるシーンだったんですね。まだ高校生なら大丈夫かもしれないけれど、子どもたちにはいろいろと危険なことがあるので、いろんな研修会や講演会で話をしていて、子どもたちだけじゃなくて保護者さんにも知ってほしいっていうことで、リーフレットを作ったんですよ

田中:明里さんのオリジナルなんですね

塚本:で、東京都に著作権があるので、ちゃんと権利許諾をして、このリーフレットには子どもたちにヘルプマークのことを知ってもらいながら、こういうふうにサポートしようねって。大人に任せちゃえばいいじゃんっていう意見もあるんですけど、でも、せっかく芽生えた良心をちゃんとみんなで見守りながら育てていくことってすごく大事だと思うので、その良心をちゃんと褒めたうえで一緒に助ける。ちゃんとあなたはいいことしたんだよっていうのもないといけないと思っていて。だから、ヘルプマーク利用者が困っていたら大人を呼んできて、実はヘルプマークの裏に対処法が書いてあったりするよっていうのも、大人に裏を見せて教えようとかと書いていて、で、最後に保護者の方にもこういうことですよっていうお願いとか、思いとかを書いていたりしていまして。これはたぶん私しか作っていなくて、子ども向けのリーフレットって。

田中:これは実に分かりやすいと思いました。もっとも作り手である方が、まさにその当事者であられることからなるものでしょうが、とても大切な視点が詰まっています。

塚本:だから、こういう講演会とか、お話もたくさんの方にしていきたいなと思って、昨年、独立し「office明里」を設立しました。

田中:それはとても意義ある起業と感じます。お話を聞いて、確かに怖いなって。明里さんに、伝道師になってもらわないと。

塚本:そうなんですよ。ヘルプマークのちゃんとした知識も得てもらいながら、正しいサポートの仕方を教えるっていうのが大事だなと思って。なので、小学校とかでもやったりしたことがあったんですけど、大盛り上がりでした

田中:子どもたちに講話されたことが、新聞の記事にもなっていましたね。明里さんの場合は、ご自分で経験されてきたことなので、説得力があるというかしっかりと伝わると思います。子ども向けのリーフレットには、監修が岐阜県ヘルプマーク普及啓発大使・塚本明里って書いてありますね

塚本:岐阜県もちゃんと認めてくださっていることなので。ただ、私がこの岐阜県のヘルプマークサポーター研修とかで話すことは、私の考えを話しているだけであって、ヘルプマークって正しい助け方とかってはっきりとはしていないんですよ。だいたいこういうときは、電車やバスに乗っていたら席を譲ろうとか、そういうことはあるんですけど、ヘルプマークを持ってる人ってやっぱり病気、障がい、さまざまなので、助け方も違うっていうのもあって、正しいサポート方法みたいなのがないので。だから、塚本明里はこうした方がいいと思いますよっていうのを研修とかでいっていて、それを伝えることも岐阜県はオーケーとしてくださっているので、より多くの人に知ってもらいたいっていう思いが岐阜県の方にもあるんだろうなって。

田中:明里さんには、持ち前の明るさとチャレンジングスピリットがあるからだと思うんですけど、やっぱりこうやって踏み出してみないとわからないことってたくさんあると思います。やっぱり発信することの、重要性を痛感する次第です

塚本:そうですね。発信することもそうだし、話していくこと、伝えていくこともそうですし、そういうのがつながって、今になってますし、たぶんこのインタビューまでもつながっている

田中:私が思ったのは、特にこの病気は人によっていろいろな症状があるので、一概にいえないといったところが難しいですね

塚本:そうなんですよね、難しい。

田中:善意としてやろうとしたんだけど、実は善意にならなかったとかね。それやっちゃだめなことよ、なんていうのも先日の研修で、私も理解したんですけども。やっぱり正しく理解することが、まず基本にあるんだなと思います

塚本:そうですね。ヘルプマークでいうと、よく街で見かけたら、じゃあ、声かけますっていう方がいるんですけど、まちを歩いていて急に声をかけられてパニックになる人だっているだろうし、いつも助けてほしいわけじゃないという方もいるので、見守ってくださいねっていうんですよ。見守るだけで、それだけでも助けになっているんですよね。その方に何かあるかもしれないから、周りに危険がないかな、あ、大丈夫。周りに危険があったら声をかける、で、オーケーですし、それで困っていたら声をかける。だから、困ることがあるかもしれないよっていうのが、このマークでわかるわけで、すごくそこは大事だなって思っていますね

田中:ヘルプマークの活動はどれくらいやっているんですか?

塚本:もう4年ぐらいになりますね。


ライフスピーカーとして、
全国でがんばっていきたい。

田中:明里さんがやろうとしてることは、ご自身として浸透してきている感を受けてますか?

塚本:研修とかをしてる感じでは広まってきているのかなとは思いますけど、まだやっぱりもっともっと知ってほしいなって。岐阜を拠点に活動はしているんですけど、お話をいただいたらどこへでも行きたいです。ただ、飛行機には乗れないんですけど、どこへでも行きたいなっていう気持ちはあって、岐阜県だけじゃなくていろんな都道府県の方にこのマークのことを知ってもらいたいし、私がもし英語ができたら、世界に日本にはこういうマークがあるんだよって知ってもらいたいぐらいなので、もっともっとこのマークを普及・啓発していきたいですね。全国には個人でヘルプマークを知ってもらいたいって発信している方もいらっしゃるので、そういう方たちとも一緒にやっていきたいです

田中:明里さんはラジオの番組も持っていらっしゃって、いろいろなことに挑戦されているんですが、これからやっていきたいことはありますか?

塚本:よく講演のお話をいただくんですけど、これまでは体調のことを考えて、岐阜が多かったんですね。でも、以前に比べ体調も少しずつなんですけどよくなってきているので、もっともっと全国に出かけて、こういう人生を歩んできましたよって発信しながら、病気のこととかヘルプマークのこととかも含めてお話していきたいなっていうのはすごくあって。今も県外から来てくださいっていうお話をいただいたりするので、すごくうれしいですし、だれもが私みたいになる必要はないと思っていて、私も辛い時期があったので、そういう時期が必要な人も絶対いるので、無理して前向きにっていわないで、一緒に人生を歩んでいく仲間になりたいなと思っています

田中:体調さえよくなれば、活動する範囲も広がりますから期待もします。

塚本:あとは、「ライフスピーカー」っていう肩書を持っていて、持っているって勝手にいっているんですけど、私は講演で、人生、私の人生で話をしていきたい、伝えていきたいって思ったときに、講師じゃなんか堅いな、じゃあどうしようかなって考えたときに、うん、ライフスピーカーだ、間違ってはいないと思って、自分で肩書をつくったんですけど、そういうライフスピーカーとしての塚本明里でも、全国でがんばって活動していきたいっていうのはありますね。

田中:今度、中津川青年会議所が主催する「ごちゃまぜフェスタ(2023年7月開催)」では、ファシリテーターをされますよね?ご一緒させていただくこと楽しみにしています。

塚本:そうなんですよ。ファシリテーターになるんですよ。初めてです。できますかっていわれたから、これは挑戦だろうと思って。こういうこと、大好きです。新しいこと挑戦するの

田中:きっと大丈夫ですよ。

塚本:以前、講演に行ったときに、中学生ぐらいの子から、どうしたら緊張しないですかみたいな質問があって。私が、すごく堂々と話しているように見えるみたいで。

田中:やっぱりね。

塚本:私は、なりきることが大切ですとかいっちゃって。それは、ミス・ユニバースジャパン岐阜大会に出たことがあって、全然そんなタイプじゃないんですけど。出る前はすごく不安なのでどうしようと思っていたんですけど、ステージのときにはもう私はすごいモデルだみたいな、世界で輝く人だぐらいの意識になっていて、もう塚本明里じゃなくなっている。そういう人だって降臨させてなりきることが多くて

田中:降臨させてしまうんだ。

塚本:自信があるかはわからない、実は。心のなかでは。なりきって堂々ととにかくやる。そうすると自信はあとからついてくるって、格言みたいな、名言みたいなことをいっちゃいました。でも、まだ33年の人生なので、これからまたいろんな経験が積めるかなと思うと楽しみです


SDGsを知ってもらえるよう、
私の講演にも入れていきたい。

田中:中津川青年会議所の「ごちゃまぜフェスタ」もそうなんですが、障がいやダイバーシティなど違いがあることを認め合うみたいな方向へ、世の中が動き始めていて。2024年に岐阜県で開催される国民文化祭も、実は、全国障害者芸術・文化祭が一緒に行われているんですね

塚本:そうなんですね。

田中:ヘラルボニーってご存じですか?
障がいを持った方たちのアートの実験的プロジェクトで僕も最近とて注目しています。JR東京駅の切符売り場をデザインされてJR東日本と福祉実験ユニットのヘラルボニーが一緒にやっていて、旅の始まりである駅を彩っていきたいと、知的障がいのある作家の作品を採用しています。素晴らしい取り組みです。

塚本:障がい者の方も健常者といわれる人たちも、お互いに困ったら助け合えばいいだけで、お互いさまになればいいだけで、その隔たりがなくなるといいですよね。心のバリアフリーってよくいいますけど。

田中:なので、中津川のごちゃまぜフェスタも、あえて僕も手を挙げました。

塚本:すばらしい。

田中:心のバリアフリーじゃないですけど、こういうのはやっぱ取っ払っていかなきゃ、本当のサステナブルな社会でないと思っていて。ただ、自分のなかでは、少し怖いんですよ。

塚本:失礼なことをしてしまわないかって?

田中:そう、本当にそう。

塚本:私自身も障がいや病気といいながら、ほかの障がいのある方だったり、病気のある方のことはわからないんですよね。だから気をつけなきゃとは思いつつも、やっぱり人対人になったときに、普通に接していて、そこに自分の思いやりだけをプラスする。だから特別な、丁寧に、慎重に扱わなきゃとかじゃなくて、思いやりだけはしっかり心に持ったうえで話すっていうのを、すごく意識していて。だから、ほかの人と変わらずしゃべるっていう感じ。

田中:とにかく、私は恐れず、発信していかねばならないと思ったんですよね。

塚本:うん、その通り。

田中:本当の話なんだけど、明里さんには勇気をいただいて。で、やっぱりここにしっかり踏み込んでいかなきゃいけないっていうことと、併せてそれを国内だけでなく、海外へも発信していくことが私のミッションだと思っています。

塚本:障がい者の方が発信していくだけじゃなくて、健常者の人も一緒に考えてもらえるだけでもありがたいんですよ。ごちゃまぜな社会にしたいんだったら、健常者の人でやる気があるっていうか、考えて活動してる人がいないと、さらに広がっていかないので、とてもありがたいです

田中:それにしても、中津川青年会議所もすばらしいイベントを開催されますね。

塚本:私も声をかけていただいて、本当に大きなイベントなのでびっくりしました。だから、やろうと思えば、やるぞってみんなが力を合わせたら、ああいうイベントも開けちゃうんだと思って。私も参加するのが楽しみです。

田中:今後ですが、個人向けのヘルプマークサポーター研修も始まるんですね。

塚本:そうなんですよ。ぜひ多くの方に来ていただきたいです。

田中:ヘルプマークがどんどん広がっていくことを願っていますし、私たちもこの取材がきっかけになって、本当にお力添えできることがあったら、喜んでやらせていただきたいなと思います。

塚本:ありがとうございます。私もSDGsとかサステナブルって最初に聞いたときに、何か難しそうって思ったんですけど。実際にふたを開けてみたら、難しいというよりかは日常の延長で、自分たちでちょっとがんばったらできることがたくさんあるんだなっていうのを知って。ヘルプマークのこともSDGsの項目に入ってきたりするので、これからはそんな堅苦しく難しく考えずに、みんなにこのSDGsとかサステナブルなことを知ってもらえるように、私も講演の内容にどんどん入れていきたいと思います

田中:でも、本当にそうだと思いますよ。よく勉強しなきゃいけないとかじゃなくて、そもそも日本人が心のなかに持っているものなので、こういうことをきっかけにしてほしいですね。明里さんの講演を聞いて、実はこういうふうに思っていたんですっていう子どもたちも出てくるかもしれないし。

塚本:うれしいです。そうなったら。

田中:この明里さんが作ったリーフレットはどこにあるのですか?

塚本:office明里のホームページにアップする予定です。本当は、私が講話させていただいた人たちに、このリーフレットをいくつか持っていってもらうのが一番なんですけど、でも、子どもたちには早くこの内容を知らせないと。子どもが見てわかるようにしたリーフレットなので、子どもたちの良心がつぶされないように、また、子どもたちに安全と防犯をちゃんと読み聞かせられる人が増えてほしい。だからこそ、私の講話を聞きにきてほしいっていうのもあるので。

田中:本当にそうですね。今日は、ありがとうございました。

TOPIC

  • 05 ジェンダー平等を実現しよう
  • 11 住み続けられるまちづくりを
  • 16 平和と公正をすべての人に
  • 17 パートナーシップで目標を達成しよう
※このターゲットはRe:touch編集部の視点によるものです
岐阜県ヘルプマークサポーターとして、
サポーターカードが交付される。
外見からはわからない病気や障がいをお持ちの方が、外出先などで援助や配慮を必要としていることを見える化した「ヘルプマーク」。岐阜県でも2017年(平成29年)からヘルプマークの配布を始め、県民のみなさんに思いやりのある行動を呼びかけている。
塚本明里さんは岐阜県のヘルプマーク普及啓発大使に委嘱され、2023年度は揖斐総合庁舎や中濃総合庁舎など4カ所で開催されている岐阜県ヘルプマークサポーター研修に講師として参加。この研修を受講すると、岐阜県ヘルプマークサポーターとして、サポーターカードが交付される。
中津川ごちゃまぜフェスタで共演!
2023年7月30日、共生社会創造の推進を目的としたイベント「ごちゃまぜフェスタ(主催(一社)中津川青年会議所)」に協賛企業として参画し、塚本さんとの共演を果たしました。
当日、同じくトークセッションにご登壇された中嶋 涼子氏(写真左)、今井 絵理子氏(写真左から2番目)

Company PROFILE

企業名(団体名) office明里
代表者名 塚本明里
所在地 岐阜市加納本石町

Re:touch Point!

がんばれ!が大好きとは、どれだけ前向きなんだろう。

Re:touch
エグゼクティブプロデューサー
田中 信康
私はいつもこのRe:touchインタビューでパワーをいただいているが、今回ほど勇気をいただいたことはそうそうない。「こんな私でもだれかの役に立てるんだって、すごく前向きに生きられるようになった」。私も同じ思いから、私が生まれ育った岐阜県で、そして、大垣市でSDGs推進をさせていただいているが、ふるさとへの思いの強さを、明里さんから相当なものを感じた。
明里さんが、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群の患者会「笑顔の花びら集めたい」を立ち上げたのも、岐阜県ヘルプマーク啓発普及大使として岐阜県ヘルプマークサポーターの育成に尽力しているのも、病名すらわからず偏見や誤解のなかで孤独に過ごした思春期の経験や思いがあるから。「こんな辛い思いをするのはもう私だけでいい」。これからは「ライフスピーカー」として、自分の病気のことやヘルプマークのことを話しながら、人生を一緒に歩んでいく仲間として、こうした人たちに寄り添っていきたい。等々、、神は乗り越えられる試練しか与えないとはいうものの、明里さんの器の大きさを感じずにいられない。元来、好奇心旺盛であることが幸いして、様々なチャレンジに果敢に挑む明里さん、これからどんな活躍をしてくれるか目が離せない。負けてられない!